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戦地からの葉書

2011年7月1日 金曜日

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戦地からの葉書

  陸軍兵長  倉本和三郎 命

  昭和十九年七月十三日
  中国湖南省邵陽縣白鶴舗にて戦死
  京都府京都市東山区出身 三十五歳

 其之後ハ、御無沙汰シテ居リマス。
 家内一同、変リハ無イデスカ。
 又、子供等ハ達者デアルカ。
 百姓仕事ヤ、工場仕事モ大変忙ガシイ事ト思ヒマス。
 出来ル丈気張テ働クノガ、銃後(じゅうご)ノ務(つと)メデス。
 寒ク成ッテ来マシタカラ、風邪ニカカラヌ様注意。又、火ノ用心ニ特ニ気ヲ付ケル事。
 村ノ務メヤ、交際ハ十分ニナサイ。
 ペントナイトノ状況ハドウカ。
 機械ノ調子ハウマク行クカ。
 稲ノ取入モ近ヅイテ来マシタ。大イニ努力セヨ。
 自分ハ、非常ニ元気デ御奉公シテ居リマス。
 奥田吉造殿ニ宜敷ク云ッテ呉レ。スベテノ事ハ尋ネナサイ。
 自分ヲ何ヨリモ大切ニセラレ度シ。

                            【平成二十三年七月靖国神社社頭掲示】

硫黄島からの近況報告

2011年4月1日 金曜日

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硫黄島からの近況報告

         海軍少佐  ?野與三郎命
         昭和二十年三月十七日
         硫黄島にて戦死
         神奈川県横須賀市出身 三十九歳

 拝啓、無事御帰還の事と遙察致して居ります。
新聞で既に御覧の通り、司令が退隊されて三日後の大挙空襲に際し、味方指揮官がB‐24に体当りを敢行、見事一機撃墜致しました。思はずあの指揮所から万歳を絶叫しました。司令退任前、是非一度お見せしたかったと語り合って居ります。
 その後は、三十機の新「レコード」でやって来ますが、こちらのHA射撃精度向上に連れ、敵の高度も次第に高くなり、被害も次第に少くなって居ります。気候も次第に良くなり、一般の健康状態も良好となり、士気大いに揚って居ります。殊に、最近次々と挙る神風特別攻撃隊の体当りの戦果に感奮し、全員肉迫挺身の意気に燃えて居ります。
 お蔭様を以て十一月一日、大尉に進級致しましたから何卒御安心下さい。
   (中       略)
 先夜は又、第二照射空隊が見事照射捕捉して司令官より色紙を賜る等、各部共次第に技量の向上を認められ、これ全く和智司令の御教訓を旨とし精進したる賜物と、只々感謝致して居ります。
 北○○島にも近くMG増勢の予定にて、最早出発準備完了致して居ります。
 先づは近況御報告迄で。

 十一月三日
                ?野與三郎
 和智大佐殿
       机下

【平成二十三年三月靖国神社社頭掲示】

遺   書

2011年2月1日 火曜日

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遺   書

       陸軍少尉  前田健三命
       昭和十九年二月二十四日
       中部太平洋方面にて戦死
       三重県鈴鹿市一ノ宮町出身 三十二歳

御両親様へ
 只、一人ノ幸子ヲ北満迄寄コシテ下サッタ事ヲ、
 常ニ感謝シテヰマス。
 少シノ孝養ヲ尽ス事ナク、
 カへッテ御心配バカリオカケシテ、申訳有リマセン。
 若クシテ夫ニ離レタ幸子。
 幼クシテ父ト別レタ富美子及来春生レテクル子ノ
 好キナ父母トナリ、
 祖父母トナッテ、軍人ノ妻トシテ遺児トシテ、
 立派ナ日本人ニ育テラレル様、御願申上ゲマス。
 私ハ今何ノ心配モナク、笑ッテ散リマス。

幸子へ
 結婚以来二ヶ年、其ノ間軍人ノ常トハ言ヒナガラ、
 何等夫トシテノ愛情ヲ傾ケル事モナク、
 別レルヲ御詫スル。
 充分健康ニ注意シ、御両親ニ孝行ヲシ、
 子供ヲ有為ノ士ニ育テラレヨ。
 常ニ幾多靖國ノ神トナラレタ人、
 及其ノ妻、子ノ事ヲ思ヒ修養シ、
 婦徳ヲ収メラレヨ。
 次ハ、靖國ノ社頭デ会ハウ。

富美子及来春生レル子へ
 父ヲ知ラナイ諸子ハ、可愛想デアルガ、
 身体ヲ鍛ヘテヨク勉強シ、
 母ノ言フ事ヲ守ッテ立派ナ日本人ニナレ。
 母ハ若クテ父ニ別レ、御身等ノ為ニ強ク生キ、
 凡ユル苦難ノ道ヲ歩ンデキタノデアルカラ、
 充分孝養ヲ尽クシ、イツイツ迄モ労ッテクレ。
 父ハイツモ諸子ノ幸福ヲ祈ッテヰル。

 【平成二十三年二月靖国神社社頭掲示】

僕は唱歌が下手でした

2010年1月26日 火曜日

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僕は唱歌が下手でした

          陸軍憲兵曹長 佐藤 源治命
          昭和二十三年九月二十二日
          ジャワ島バタビヤにて法務死
          岩手県出身 三十二歳

    一、僕は唱歌が下手でした
      通信簿の乙一つ
      いまいましさに人知れず
      お稽古すると母さんが
      やさしく教へてくれました

    ニ、兄弟みんな下手でした
      僕も弟も妹も
      唱歌の時間は泣きながら
      歌へばみんなも先生も
      笑って「やめ」といひました

    三、故郷を出てから十二年
      冷たい風の獄の窓
      虫の音聞いて月を見て
      母さん恋しと歌ったら
      みんなが泣いて聞きました

    四、僕のこの歌聞いたなら
      母さんきっとうれしさに
      頬すり寄せて抱き寄せて
      「上手になった良い子だ」と
      ほめて下さることでせう

【平成二十二年一月靖国神社社頭掲示】

悠久の大義に生きたり

2009年1月18日 日曜日

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悠久の大義に生きたり

        陸軍准尉 中山 義雄命
        昭和二十一年一月十日
        ソ連ハラグン収容所にて公務死
        東京都港区芝西久保櫻川町出身
        三十二歳

 徒らに嘆くを止めよ。
 吾笑ひて悠久の大義に生きたり。
 児孫の養育及教育は妻たる然して母たる
 御身の責務たり。吾が生前の言葉の如く、
 立派なる御国の吾子の教育をせられたし。
 男の子なれば、士官学校に入校せしむべく、
 教育せられたし。
 女の子なれば結婚期に細かく心遣ひて、
 幸福なる家庭の主婦とすべし。
 残せし資産は有効に使ひて、
 教育を怠ること勿れ。
 父母の孝養は吾に代りて
 誠意之(これ)をなすべし。
 資産の中、伍阡圓は父母様に
 お渡し申上ぐべし。(中略)
 吾子は吾と心得、亦お国の御宝と心得て
 時に秋霜烈日、時に慈愛以て臨まれたし。

               謹 言

昭和十九年八月二十三日

               中 山 義 雄

【平成二十一年一月靖国神社社頭掲示】