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遺 書

2014年11月17日 月曜日

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海軍二等機関兵曹 姫野 清馬 命
  昭和十七年七月五日
  アリューシャン列島アガツ島付近にて戦死 
  福岡県糸島郡福吉村出身
  二十六歳

母上様には、色々と御心配を掛けまして申し訳
ありません。
海軍軍人となったこの上は、誠心誠意奮闘する
覚悟です。
軍人たる者何時身を捨つることあるや、今から
決心してゐます。
母上様の並大抵ならぬ苦労は、身に沁みて有難
いと思ってゐます。
小生今までの御不孝をお許しください。
「一死報國」以って繕はして戴きます。
 母上様に対して深甚の感謝を捧げます。
                     敬具
  昭和十一年五月三十日
                  姫野清馬
母上様

  【平成二十六年十一月靖國神社社頭掲示】

偉大なる歴史の創造

2014年11月3日 月曜日

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陸軍中尉 殿塚 隆治 命
  昭和十九年九月二十八日
  西カロリン諸島パラオにて戦死
  栃木県栃木市出身
  二十五歳

 父上様
           陸軍病院一室にて 児 隆治
 今日も亦《また》爽かな薫風《くんぷう》にアカシアの若々しい香りを肌近く感じる五月の美しい晴天です。窓から見る物みなみどりに萌える南満の風物をながめてゐると、思ひがけなくも寒かつたチチハルの訓練、苦しかつた冬季演習などが想出されて来て、白衣に不遇をかこつ現在が夢の様に思はれてなりません。世の中は併《しか》し眇《すがめ》たる一見習士官の負傷などと云ふ事には何の関心もなく、何物にも妨げられぬ巨大な歴史の歩みをつづけて居ます。世界は此の偉大なる審判者の血みどろの努力をつづけてゐるのです。そして私は今日ほど世界各國が、とりわけ我日本が此の歴史に対し、敬けんな崇高に近いあり方をしてゐる時はありえなかつたと思つてゐます。
 静に欧大陸を想ひ、米州内部の諸事情を辨《わきま》へ、翻《ひるがえ》つて我日本に当面せる現実に到達する時、私は偉大なる歴史を創造してゐる私達自身の姿をいやでも見出ださねばならないのです。
 (中略)
 國事、家事共に多端の折から皆様の一層の御自愛をお願ひ致します。
 五月二十二日
 この身いま白衣にありて國思ふ
 薫風に白衣をかこち國思ふ

  【平成十二年五月靖國神社社頭掲示】

我は御國の山桜(出撃に際して)

2014年10月6日 月曜日

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海軍少佐 緒方 襄 命
  神風特別攻撃隊神雷部隊桜花隊
  昭和二十年三月二十一日
  沖縄方面にて戦死
  海軍第十三期飛行科予備学生
  関西大学
  熊本県出身
  二十三歳

懐しの町 懐しの人
今吾れすべてを捨てて
國家の安危に
赴かんとす
悠久の大義に生きんとし
今吾れここに突撃を開始す
魂魄《こんぱく》國に帰り
身は桜花のごとく散らんも
悠久に護國の鬼と化さん

いざさらば 我は御國の山桜
母の身元にかへり咲かなむ
          海軍中尉 緒方 襄

  【平成九年三月靖國神社社頭掲示】

遺書

2014年9月15日 月曜日

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陸軍少佐 森本 三郎 命
  昭和十八年九月三日
  ニューギニア ウエワクにて戦死
  兵庫県印南郡別所村出身
  二十六歳

一、
 皇民トシテ錦旗ノ下ニ死ス
 之臣ノ無上ノ光栄ナリ死シテ
 皇居守護ノ鬼ト化シ猶悠久ニ
 皇國ト共ニ生クルヲ喜フ

二、
 死ニ臨ミ悔ケレト未タ御奉公ノ
 足ラサリシト垣内ニ逆臣名利ニ
 趨ル徒輩ノ絶エサルヤヲ憂フ
 老幼男女階級ヲ問ハス眞ニ皇民
 タルノ光栄ニ感激シ各々ノ使命
 ヲ自覚シ己ノ最大ヲ傾ケ皇ニ奉
 シ顧ミテ恥サルヲ望ム

三、
 遺品ヲ残シ遺族ノ涙ト化スヲ欲
 セス皇國ニ生レ彼蒼ニ散華シ
 遺骨ノ帰省固ヨリ期セス何処ニ
 散ルトモ八紘建設ノ浄土ト化サン

四、
 両親ノ恩ニ報イルニ心配ノ累積ヲ
 以テセシ罪今日ノ壮行ニ免シ許シ
 給ヘ

                 三郎

  【平成二十六年九月靖國神社社頭掲示】

遺書

2014年8月18日 月曜日

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海軍兵曹長 庄司 猛夫 命
  昭和十九年十一月二十一日
  フィリピン東方海面にて戦死
  福島県岩城郡内郷町出身
  二十七歳

我今より我が大日本帝国の決戦場に向ふにあたり一言遺言す。
我もとより戦場に向ふに心残りなし。今大君の御為、大和民族の盾となれるを喜ぶ。家人よ嘆く勿れ、むしろ祝すべし。
我が家にも名誉の戦死の記されることを地下より喜ぶ。
二十六年の間、海よりも深き父母の恩に報い得ざるは、残念なり。
残る弟妹達、兄たる小生の分も孝行されたし。
節子よ、兄の墓は敵の重艦で大きく立派なものだ。
此の海を今にお前たちが船に乗って通ることもあるでしょう。
兄は喜んで見上げるよ。
母さんに孝行、父の言を守り弟妹共の指導をたのむ。
(後略)
  昭和十八年一月十日 

  【平成二十六年八月靖國神社社頭掲示】

犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ(水漬く屍………海底の遺書)

2014年8月4日 月曜日

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海軍少佐 樋口 孝 命
  昭和十九年九月六日
  徳山湾にて特攻兵器「回天」
  第一号を操縦訓練中、
  黒木博司少佐と共に殉職
  東京都中央区出身
  海軍兵学校卒
  二十三歳

  指揮官ニ報告
予定ノ如ク航走、一八一二潜入時突如傾斜DOWN二〇度トナリ海底ニ沈坐ス。其ノ状況、推定原因、処置等同乗指導官黒木大尉(少佐)ノ記セル通ナリ。事故ノ為訓練ニ支障ヲ来シ洵《まこと》ニ申訳ナキ次第ナリ。
  後輩諸君ニ
犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ、
七日〇四〇五呼吸困難ナリ、
大日本帝國万歳三唱ス。戦友黒木ト共ニ。
訓練中事故ヲ起シタルハ戦場ニ散ルベキ我々ノ最モ遺憾トスルトコロナリ。
然《しか》レドモ犠牲ヲ乗越エテコソ発展アリ、進歩アリ、庶幾《こひねがは》クバ我々ノ失敗セシ原因ヲ探究シ、帝國ヲ護ルコノ種兵器ノ発展ノ基ヲ得ンコトヲ。
 周到ナル計画、大胆ナル実施、生即死、〇四四〇、
 國歌奉唱ス〇四四五、
 〇六〇〇猶《なほ》ニ人生ク、行ヲ共ニセン
 大日本帝國万歳 〇六一〇、
  十九年九月六日
            海軍大尉 樋口  孝

  【昭和四十一年十一月靖國神社社頭掲示】

遺 書

2014年6月16日 月曜日

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陸軍中尉 阿部 司郎 命
  昭和二十年六月五日
  三重県紀伊長島町熊野灘沖合にて戦死
  神奈川県相模原市上鶴間出身
  二十三歳

天皇陛下萬歳
皇國永遠の発展を祈り奉る。
明野戦闘隊、皇軍戦闘隊の発展と各位の御健康を
祈る。
同期生各位の健康と発展を祈り、永き交友を謝す。

両親宛
平素の御教訓に遵《したが》ひ、司郎は喜びて皇國の為に死
す。乞《こう》安心。
生存中は直接何等の孝養を盡《つく》し得《え》ざりしも、大孝
の道に死したるは、御両親様も満足の事と拝す。
陛下の御為、國の為、不肖なる我が身が御役に立
ちますこと司郎最大の嬉悦《きえつ》を感じます。
七生報國の覚悟なれば、此の次生まれ来たる時に
は必ず膝下《しっか》に参ぜん。
祈御健康。

              阿部 司郎

  【平成二十六年六月靖國神社社頭掲示】

日本は今疲労してゐる(今朝、特別攻撃隊の申渡しあり)

2014年6月2日 月曜日

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海軍大尉 飯沼 孟 命
  神風特別攻撃隊第二魁隊
  昭和二十年五月十一日
  南西諸島方面にて戦死
  横浜専門学校
  海軍第十三期飛行科予備学生
  神奈川県横須賀市公卿町出身
  二十四歳

(四月十二日)
 本日朝、佐波大尉他○○○名の特別攻撃隊申渡しあり、私もその一員として加へられた。遂に正式に特攻隊員となつたのだ。
 もはや何ものも無だ。何も考へるまい。純一無雑で突入しやう。沖縄ではかうしてゐる間にも、幾つかの生命が敵空母と運命を共にしてゐるのだ。
 日本だけにしかない特攻隊、日本は今余裕が欲しいのだ。
 比島レイテ、硫黄島、西南諸島と、相続いての死闘に、日本は今疲労してゐる。この疲れを取り返すためには、西南諸島方面の敵艦船を全滅さすことだ。(中略)
 人生五十年、その半分の二十五年を無事に生き抜いたことを思へば不思議なくらゐだ。子供の頃が思ひ出される。
 三月十七日三浦君に会つたが。これが最後であらう。三浦君も遠からず征《ゆ》くであらう。
 突込む時は、どんなものであらうか?
 さつぱりした何とも云へぬ気持だらうと思ふのだが、何となく気にかゝる。(後略)

  【昭和四十七年七月靖國神社社頭掲示】

一兵士の死をこの上なく尊く思ふ(遺書)

2014年5月5日 月曜日

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海軍大尉 溝口 幸次郎 命
  神風特別攻撃隊
  昭和二十年六月二十二日
  沖縄方面にて戦死
  静岡県出身
  中央大学
  二十二歳

遺書
  (一)
 美しい祖國は、おほらかな益良夫《ますらお》を生み、おほらかな益良夫は、けだかい魂を祖國に残して、新しい世界へと飛翔し去る。
  (二)
 「現在の一点に最善をつくせ」
 「只今ばかり我が生命は存するなり」
とは私の好きな格言です。
 生れ出でゝより死ぬる迄、我等は己の一秒一刻に依つて創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらざうをきざみつつあるのです。私は一刻が恐しかつた。一秒が重荷だつた。もう一歩も人生を進むには恐しく、ぶつ倒れさうに感じたこともあつた。しかしながら、私の二十三年間の人生は、それが善であらうと、悪であらうと、悲しみであらうと、喜びであらうとも、刻み刻まれて来たのです。私は、私の全精魂をうつて、最後の入魂に努力しなければならない。
  (三)
 私は誰にも知られずにそつと死にたい。無名の幾万の勇士が大陸に大洋に散つていつたことか。私は一兵士の死をこの上なく尊く思ふ。

  【昭和三十八年七・八月靖國神社社頭掲示】

人類は何故戦ひ血を流さねばならぬか(遺 書)

2014年4月7日 月曜日

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陸軍大尉 竹内 惠 命
  歩兵第八十二聯隊
  昭和二十年三月十日
  仏領印度支那ハノイ附近にて戦死
  東京都出身
  二十九歳

 遺書

 私は今静かな気持で此の書を認《したた》めることの出来る時と機会とを得た事を実に幸福に思ふ
 私は過去三年の間、南洋諸島に於けるあの血みどろな日米決戦の実体に遂に触るゝ事なく尊い同胞の流血を唯凝《じ》と眺めてゐた 此間私の心は常に何か堪へられない、何かせめられ追はれる様な焦燥と、部隊の任務の為と云ふ美名に隠れ安易に就かんとする怯懦《きょうだ》とが烈しい相剋を続けてゐた 自分には信念がないと悲しく思つた 軍人として不逞の徒であると思つた 私は淡々として而《しか》も磐石の如き亦燃ゆるが如き雄々しく逞《たくま》しい信念の持主になり度いと自ら願つたそして焦つた 私は周囲にある本を漁り読んだ 陳腐ではあるが眞に時局を認識したいと思つた そして勉めた 其結果此世界動乱が何を意味するか 其実体が何であるか 人類は何故斯《か》く戦ひ血を流さねばならぬかを私自身の心の中に摑むことが出来た様な気がする(中略)
 私は此の歴史の選んだ方向に道を神州日本が、一億皇國臣民が一路驀《ばく》進する光景を、姿をはつきりと見た 私は信念を得た 私は戦ふ そして我々は勝たねばならぬ 亦我々は勝つことを信じねばならぬ(後略)

昭和二十年三月一日
          陸軍中尉 竹内惠

  【平成十六年五月?國神社社頭掲示】