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國破れて学問なし(今ぞペンを捨て銃を執る)

2014年1月6日 月曜日

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陸軍曹長 池田 忠雄 命
  昭和二十年七月二日
  比島中部ルソン島にて戦死
  山形県酒田市東中の口町出身
  二十三歳

 昭和十八年九月二十六日
 学徒出陣する時は終《つい》に来た 徴兵猶予の停止 文科系系統の学校の閉鎖
 来るべきものが終に来たのだ 吾等はペンを捨て学業半ばにして銃を持つ 愛する祖國のために戦はねばならぬ 深海の底のやうな静けさだ さうだ總《すべ》ての過去を清算して 真の逞《たくまし》き日本男児となり 永遠の将来に生きねばならない 自分一個の肉体は一時的かも知らないが 自分の霊魂は人類平和を目標とする正しき民族精神の中に永遠に生きることであらう
 國破れて学問なし 美しき祖國の山河なし 吾等学徒の立つべきときは今ぞ!! さうして敵と生死の一戦をまじへ断じて断じて勝たねばならぬ
 死ぬ前に心残りなく 故郷の空に山に河に海に遊びまはつてよく見ておかう 俺の苦しいにつけ楽しいにつけ黙示のうちに慰め励ましてくれた大自然だ 俺を清く正しく大きく育て上げてくれた美しきあの山 あの河を!!
(後略)

  【平成十一年七月?國神社社頭掲示】

それは運命だと思ひます

2013年11月18日 月曜日

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陸軍伍長 宗本 琢磨 命
  昭和十九年十一月十一日
  比島カモテス海峡にて戦死
  岡山県苫田郡中谷村出身
  二十三歳

蝉の声かしましき八月の初旬、今昭和十九年八月の始め、友と共に戦地に行かんとするに当り、一筆父上に呈し、不孝を
詫びんとす。(中 略)
何処に行き、どんな事が起っても琢磨はお父さんの子であると云ふことを忘れない積りです。そこから必ず自分の進む可
き、何らかの方向が示されると信じます。
両親が今迄、琢磨を引張ってきて下さった強い強い力は、やがて琢磨が自分一人で押進んでゆく強い力と成ると信じます。
風波荒い社会、つくづくさう感じます。波静かな両親の港に憩ふときのみ、琢磨は何もかも忘れて安らかな気になります。
淋しい、さう云ひたい今の気持ちです。いくつになっても、やっぱり親程よいものはこの世にないとつくづく思ひます。
戦地の病院で息を引取る病人が、最後に云ふことばは「お母さん」の一声です。
いつまでもいつまでも、親のもとにいたい、さうした気持ちで一杯なのです。
然し、男である以上、まして父の子である以上、日本の男の皆やることは死んでもやらねばならないのです。お父さんの云はれた通り、必ず死ぬ人間で有る以上、どこでいつ死んでもそれは運命だと思ひます。
幸にして妻子はなし。唯々両親様の健康は、一日も長くすこやかなれと祈るのみです。
其の日、其の日の最善を尽しつつ琢磨は元気で行ってきます。
決して進んで死を望むやうな琢磨ではありません。
然し、死す可き時には潔く死にます。其れが男子の一生として、亦、両親様も一番喜んで下さる道と信じます。
美佐子、綾子もよくよく両親様の注意を守り、立派な女性となるやう。

昭和十九年八月四日 朝

琢磨

【平成二十五年十一月靖国神社社頭掲示】

大好きな日本の空へ飛んでかへる

2013年11月4日 月曜日

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陸軍中将 酒井 隆 命
  昭和二十一年九月十三日
  南京にて法務死
  陸軍大学校第二十八期
  東京都港区青山高樹町出身
  五十九歳

 五月三十一日
 ラヂオでおききでせうが、戦犯として今日決定します。
 これによつて中、日がまことの道を歩くことゝなり、日本を侵略と言はれないですむ道になれば、私の本願です。
 好きな中國で死んで、私はよろこんで逝きます。(中略)
 子供達の教育の金もないかと案じます。インフレの中に何もかも妻に一任して私はこんな所で死ぬ、まことに申訳ありません。(中略)
 遺骨があればその一部を分骨して原村(広島県の郷里)の父母の山林か墓前のところに土まんじゆうでもこしらへてお埋め下さい。墓石なんかいらぬ。(中略)
 八月二十六日
 あと二、三日の死を待つのも仕方ない。いやなものだ。静かに故人の幾人かゞ遭遇した天命をたどるのだ。所見も感想もなるべく考へない。書くまい。手近の人々を考へるよりか、本をよみ、歴史をよみ、徐《ゆるや》かに人生を去る。その時まで勉強するのだ。洗濯もし、きものも整理する。
 九月十日
 (中略)もう二度と行けないと思ふと残りをしいが、死ねば心はすぐ日本へかへる。いつでも刑にかけてと祈る。何時迄も牢屋に生きるよりか、放たれた日本の空に、我は祖國の礎となる。
 大好きな日本。私は空とぶ姿でかへる。

                  酒 井  隆
酒 井 菊 枝 殿

  【昭和四十四年十月靖国神社社頭掲示】

妹弟へ

2013年9月23日 月曜日

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陸軍伍長 赤井 稔 命

  昭和十九年九月二十一日
  比島ルソン島バコールにて戦死
  鳥取県米子市大工町出身 
  十九歳

千代枝。元気で勤めて居る事と思ふ。
俺も元気で居る。安心してくれ。愈々出発だ。喜んでくれ。
此の上は、専心御奉公致す覚悟である。
千代も大人になった。母上様をよく手伝って御安心させてあげてくれ。
俺の分も兼ねて孝養を尽すのだぞ。
若い者の陥り易い短所としてと言へば解るだらう。決して其の様なまねはするなよ。
一から十まで孝養だ。それから博の面倒をよく見てやれよ。
仲良く暮すのだ。
お前が病気したら、母上様の苦労は大きなものだ。
体を大切に、孝養を尽くせ。
千代枝殿
        
                       兄

博。元気で勉強の事と思ふ。
俺も愈々南方で活躍するから安心せよ。
体を丈夫にして、よく勉強して立派な者になるのだ。
高等科一年生にもなれば、物事の善悪も知って居る事と思ふ。
此の事をよく弁(わきま)へて、よく遊びよく勉強しなさい。
母上様に孝養を、俺の分も尽す様、確かに申付けます。
姉さんの言ふ事をよく聞ひて、体を大切にしっかり勉強しなさい。
        
                     兄より
博へ

       【平成二十五年九月靖国神社社頭掲示】

直《すなお》なる道を歩め

2013年7月8日 月曜日

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陸軍衛生兵長  中元 ? 命
  昭和二十年七月五日
  比島ミンダナオ島ブキドノン州
  マナゴック東北方にて戦死
  兵庫県神戸市葺合区北本町通出身
  三十二歳

大日本帝国に生を享《う》けし者、誰か国に報ゆるの心な
かるべき。
此の度、栄《は》えある御召《おめし》により皇軍の一員に参加す。
男子の本懐なり。生還期し難し。
茲《ここ》に書を認《したた》め、遺書とす。
余が妻、余が子として直なる道を歩めと教ふるのみ。
人間は、万物の霊長なり。
何時如何なる時も、人の道を正しく進め。
富貴《ふうき》も名誉も余の望みに非ず。只々人間らしくと望
むのみ。
?進《きよゆき》よ。如何なる方面に志すと云へど、其の本分を
全うせよ。
子としての務めを果せ。先づ健康なり。
じつゑよ。汝は子の母で有り、親の子也。
十二分、子の素質を伸ばすと共に、子としての務め
を尽せよと願ふのみ。         
                   終り

  昭和十九年四月二十九日

                中元 ? 書
? 進
   殿
じつゑ

  【平成二十五年七月靖国神社社頭掲示】

前線の匂ひがみなぎつてゐます(顔を見るだけで満足)

2013年7月1日 月曜日

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陸軍軍属 松村 雪子 命
  陸軍軍属 松村 雪子 命
  昭和十九年一月二十三日
  中国広東省番禺県秀木橋にて戦死
  名古屋市中区西瓦町出身
  第百四師団司令部副官部所属
  二十三歳

(前略)
 昭和十九年の決戦態勢に入りまして、こちらも何だかきびしい空気がただよつてゐます。國民がいよいよ一丸となる秋《とき》が参りましたね。
 先日の臨休の時、野戦病院と陸軍病院を慰問しました。内地とちがつて野戦病院は看護婦さんも無く、殺風景な男の人バカリの灰色の感じが致します。
 私達の差し上げるお花をとても嬉しさうに動けない身体を無理にずらせて瞳の中に嬉しさを一杯あらはしていらつしやる姿には、涙がこぼれます。
 戦地といつても広東は平和そのもので内地より物資も豊富ですので私達も南支へ来てもさほど胸をつくものがありませんが、かうして病院へいつたりしますと前線の匂ひが多分にみなぎつてゐます。私達もその内に前線へ慰問に参る予定ですが何《いず》れも芸無し猿ですから困つて居りましたら、兵隊さんは顔を見るだけで満足だと伺ひます。(後略)
 一月十六日
                               ゆき子
兄 上 様
姉 上 様

  【平成十四年十一月靖国神社社頭掲示】

更級横多神社社頭に於いての出征挨拶

2013年5月20日 月曜日

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陸軍大尉 望月 重信 命
       昭和十九年五月二十二日
       フィリピンにて戦死
       長野県更級郡篠ノ井町出身
       三十五歳

本朝はかくも早々皆様の熱誠なる御歓送をいただきまして、まことに感謝に堪へません。私は皆様の御心に報ゆべく、必ず全力を尽して御奉公を致す覚悟であります。
今やこの非常時は、今までの戦争の様に、単に世界の地図が塗り変へられるといふ丈のものではありません。世界人類の歴史の上に、数百年の大きな時代を画して、人類の人生観が、国家観が、世界観が、政治の上にも、教育の上にも、経済の上にも、芸術の上にも、宗教の上にも、その他一切に大ひなる飛躍をなさむとしてゐるのであります。新らたなる世界が、我が皇国日本を母体として生れむとしてゐるのであります。(中略)
戦死すると云ふ事は、人生本来の約束から観れば、それ程驚く可き事でも、またさして悲しむべき事でもありません。増してや、天皇の御為にこの一命を捧げます事は、日本男子の本懐であります。吾等は只、この生れては死に、死んでは生れてゆく悠久なる人生の連鎖に於て、如何にして永遠の生き甲斐に生き、さうして不滅の死に甲斐に死ぬかと言ふ事であります。(中略)
私は本日、大命を拝して勇んで戦線にのぞみます。もとより生還は期して居りません。
然し、私達をして死に甲斐あらしむるか否かは、あとに残られた皆様の責任であります。今後まだまだ大なる、それこそ非常なる艱難が国家の上に、皆様の上に、必ず振りかゝって来るのでありませう。その時になって、どの様な苦しい事があっても、皆様は決してへこたれたり、悲鳴をあげるやうな事があってはなりません。どうかこの事をこの社前におきまして、くれぐれもお願ひ致しまして出発のご挨拶と致します。終りにのぞみまして、村内皆様の御健康を祈ります。
                      終り
    昭和十四年五月一日

   【平成二十五年五月靖国神社社頭掲示】

学半ばにして征く(遺稿「出陣に際して」)

2013年5月6日 月曜日

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陸軍少尉 中里 輝哉 命
  東京帝國大学在学中 学徒出陣
  電信第二十七聯隊
  昭和二十年四月八日
  フィリピン群島ルソン島にて戦死
  東京都出身 二十一歳

 卿等《けいら》学べ いくさは 大き菊の秋 青邨《せいそん》

 私が東大に入学した時に師のよまれた句である。思へば私の学窓生活は戦ひのさなかに続けられて来た。学半ばにして征く。これも予期してゐなかつた事ではない。われらなきあとに、畏敬する友と後輩とが学統を守つて下さるのを信じて、安んじて征《ゆ》く。
 私の部生活は恵まれてゐた。諸先輩に導かれ、多くの友に囲まれて、私の歩んで来た道には東高弓道部の黄金時代もあつた。その上に私はよき後輩を持つてゐる。これらの人々にいろいろと迷惑をかけ、難しい言葉を並べたりしたが、私はやはり、平凡に弓を愛し、友を愛し、部生活を愛する一人であつたと自ら思ふ。
 われわれが弓を磨き心を練つた所以のものは、相率ゐて國家有為の人となるにあつた。時来つて我々の仲間は相次いで戦場に出る。草莽《そうもう》の心は誰の胸にもある事であらう。ことごとしい言葉は最早いらない様な気がする。
 終りに、諸先生の御長寿を祈り、諸兄の研鑽と御健康を祈つてやまない。

        昭和十八年十一月二十七日

   【平成十六年六月?國神社社頭掲示】

遺言

2013年4月15日 月曜日

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陸軍中尉 長崎 太郎 命
       昭和二十年四月十六日
       ニューギニア、パンガンにて戦死
       福岡県宗像郡福間町出身
       二十五歳

御両親様。太郎ハ、オ先キニ逝キマス。
二十三才ノ今日マデノ御恩情ニ、ムクユルコトナク不孝之罪、御赦(ゆる)シ下サイ。
御両親様ニハ、入営ヨリ御覚悟ノコトト思ヒマス。
太郎ハ、父上ノ子デモナケレバ、母上ノ子デモアリマセン。
御天子様ノ赤子(せきし)デス。太郎ハ、二十一才ニテ長崎家ト別離シマシタ。
家ニハ正ガ居マス。弟達ガヰマス。長崎家ノ将来ハ万々歳デス。
ミツエモ、母上ヲオ助ケ申シテクレ。
妹弟ノ者ニモ兄トシテ、何ニ一ツシテヤルコトモナク、済マナカッタ。
之カラ兄ノ分マデ、皆デ仲良ク御両親様ニ孝行タノムヨ。
病気スルンヂャナイゾ。仲良クナ。
申シ上ゲルコトモアリマセン。長崎家之万福ヲ祈リマス。
   昭和拾八年一月五日
                            長崎太郎
    長崎家御祖先様
    長崎武雄 様
    長崎タマノ様
    長崎ミツエ殿
    長崎 正 殿
    長崎哲也 殿
    長崎俊之 殿
    長崎正幸 殿

   【平成二十五年四月靖国神社社頭掲示】

大義に生きんと覚悟致して居ります

2013年2月18日 月曜日

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陸軍少佐 橋詰 良直 命
  昭和二十年二月二十四日
  東部ニューギニア・イロップにて戦死
  新潟県中頸城郡板倉村出身
  二十五歳

皇紀二六〇四年の新春を迎へ、謹みて新年を賀し奉ります。
御両親様には、愈々御壮健にてお暮らしのことと推察致し喜んで居ります。
当方面戦況益々緊迫を告げ、元旦と雖《いえど》も全てを忘れて新年を祝することも出来ず、頭は常に戦場に馳せて居ります。
敵情急速に変化を来し、今や敵を至近の距離に迎撃せんとして居ります。或はこれにて最後となるかも知れませんが、決して犬死はせん覚悟であります。
目下、某要職に就いて居ります。部下も或は沢山戦死をするでありませう。部下のみを殺しは致しません。
○○と運命を倶《とも》にし、身命の存する限り一意宿敵撃滅に邁進致します。
幼にして父母の膝下《しっか》を離れ、何等孝養を尽し得ざりしは甚だ残念に且《かつ》、心残りではありますが、大義に生きんと覚悟致して居ります。
兄さん弟には宜敷くお伝へ下さい。近所の皆様に宜敷く。
猶、私戦死の時は伊藤様にのみお伝へ下さい。
ここに最後のお便りをなし、お別れ致します。
                     敬 具

   【平成二十五年二月靖国神社社頭掲示】