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学半ばにして征く(遺稿「出陣に際して」)

2013年5月6日 月曜日

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陸軍少尉 中里 輝哉 命
  東京帝國大学在学中 学徒出陣
  電信第二十七聯隊
  昭和二十年四月八日
  フィリピン群島ルソン島にて戦死
  東京都出身 二十一歳

 卿等《けいら》学べ いくさは 大き菊の秋 青邨《せいそん》

 私が東大に入学した時に師のよまれた句である。思へば私の学窓生活は戦ひのさなかに続けられて来た。学半ばにして征く。これも予期してゐなかつた事ではない。われらなきあとに、畏敬する友と後輩とが学統を守つて下さるのを信じて、安んじて征《ゆ》く。
 私の部生活は恵まれてゐた。諸先輩に導かれ、多くの友に囲まれて、私の歩んで来た道には東高弓道部の黄金時代もあつた。その上に私はよき後輩を持つてゐる。これらの人々にいろいろと迷惑をかけ、難しい言葉を並べたりしたが、私はやはり、平凡に弓を愛し、友を愛し、部生活を愛する一人であつたと自ら思ふ。
 われわれが弓を磨き心を練つた所以のものは、相率ゐて國家有為の人となるにあつた。時来つて我々の仲間は相次いで戦場に出る。草莽《そうもう》の心は誰の胸にもある事であらう。ことごとしい言葉は最早いらない様な気がする。
 終りに、諸先生の御長寿を祈り、諸兄の研鑽と御健康を祈つてやまない。

        昭和十八年十一月二十七日

   【平成十六年六月?國神社社頭掲示】

遺言

2013年4月15日 月曜日

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陸軍中尉 長崎 太郎 命
       昭和二十年四月十六日
       ニューギニア、パンガンにて戦死
       福岡県宗像郡福間町出身
       二十五歳

御両親様。太郎ハ、オ先キニ逝キマス。
二十三才ノ今日マデノ御恩情ニ、ムクユルコトナク不孝之罪、御赦(ゆる)シ下サイ。
御両親様ニハ、入営ヨリ御覚悟ノコトト思ヒマス。
太郎ハ、父上ノ子デモナケレバ、母上ノ子デモアリマセン。
御天子様ノ赤子(せきし)デス。太郎ハ、二十一才ニテ長崎家ト別離シマシタ。
家ニハ正ガ居マス。弟達ガヰマス。長崎家ノ将来ハ万々歳デス。
ミツエモ、母上ヲオ助ケ申シテクレ。
妹弟ノ者ニモ兄トシテ、何ニ一ツシテヤルコトモナク、済マナカッタ。
之カラ兄ノ分マデ、皆デ仲良ク御両親様ニ孝行タノムヨ。
病気スルンヂャナイゾ。仲良クナ。
申シ上ゲルコトモアリマセン。長崎家之万福ヲ祈リマス。
   昭和拾八年一月五日
                            長崎太郎
    長崎家御祖先様
    長崎武雄 様
    長崎タマノ様
    長崎ミツエ殿
    長崎 正 殿
    長崎哲也 殿
    長崎俊之 殿
    長崎正幸 殿

   【平成二十五年四月靖国神社社頭掲示】

兄は櫻の木に咲いて居る

2013年4月1日 月曜日

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海軍少尉 服部 壽宗 命
  神風特別攻撃隊「菊水部隊天櫻隊」
  昭和二十年四月十六日
  南西諸島方面にて戦死
  三重県出身
  十九歳

節子殿
 兄は神風特別攻撃隊の一員として明日敵艦と共に、我が愛機雷撃機天山に特攻用爆彈を抱きて命中、男一匹玉と碎《くだ》け散るのだ、最後にのぞみ一筆書遺し置くことあり。
 節子も今では立派な可愛い女学生となつたことであらう。兄は節子の女学生姿が見られずに死んで行くのが残念だ。節子も光輝ある服部家の一女子だ。兄の一人ぐらゐが死んだとて何も悲しみなげく事はない。
 兄は喜んで天皇陛下の為、重大危機に直面して居る日本の為、一億國民の楯となつて散つて行くのだ。少しも悲しまずに笑つて兄の魂を迎へて呉れ。
 (中略)
 兄は常に九段の社の櫻の木の枝に咲いて居る。裏の元屋敷の櫻の木にも咲きますよ。櫻が咲いたら兄だと思つて見て下さい。
 さやうなら。母上を御願ひ致します。
 出撃前夜                          兄
親愛なる妹 節子殿

  【平成十五年四月靖国神社社頭掲示】

決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ

2013年3月18日 月曜日

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海軍少佐 天野 一史 命
  昭和二十年三月十九日
  九州東南方海面にて戦死
  奈良県吉野郡黒瀧村出身
  二十五歳

御父母上様
私ハ此ノ様ナ拙文デモ、今度戦地ヘ出タラ再ビ御出会出来ヌモノト思ヒ、真心コメテ書ク事ノ出来ル資格ニナッタカト思ヘバ、本当ニ感謝ノ念デ胸ガ一杯デアリマス。
中学以来航空ニ志シ、父母ノ了解ヲ待タズ色々ナ心配ヲカケ、決戦ガ血戦ヲ生ンデ、昨夏全学徒ヨリ飛行予備学生ガ募集サレルヤ、小生ノ応募ヲ許シテイタダイタ時ノ喜ビ、先祖代々ヨリ伝ハル至誠尽忠ノ赤キ血ハ躍ルヲ覚ヘマシタ。
而シテ時ハ早クモ一年ハ流レ、艦爆隊士官トシテ近ク決戦ノ大空ヘ飛立ツ事ト相成リ、本ヨリ生還ハ期セズ。(中 略)
想フニ此ノ年マデ私ヲ教育シテ下サレ、父母ノ慈愛ノ下ニ過シタ生活ハ、私ハ本当ニ幸福デアリマシタ。
私ハ此ノ御恩返シハ、只々一身ヲ国ニ捧ゲテ立派ナ死ニ方ヲスレバ、御両親モサゾカシ喜ンデ下サル事デセウ。
一史戦死ノ報ガアリマシテモ、決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ。
一史ノ写真ニ只一言「良クヤッテ呉レタ」ト言ッテ下サレバ、私モ大手ヲ振ッテ靖国神社ヘ行ケマス。
我々青年士官ガ頑張ラナクテハ、他ニ誰ガ元ノ日本ニ戻ス事デセウ。
想ヒ出ハ尽キズ。又、想ヒ出セバ想ヒ出ス程胸ガ一杯デス。
何卒、今マデノ不孝ヲ御許シ下サイ。
御両親様モ御体大切ニ、余生ヲ御送リ下サイ。
   昭和十九年八月二日
       午後四時半 於 書院
御両親様ヘ
    出陣ニ際シ

             海軍少尉 天野一史
【平成二十五年三月靖国神社社頭掲示】

ニイサンガ カタキヲ ウツテヤルカラ(妹へ)

2013年3月4日 月曜日

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海軍少尉 宮崎 勝 命
  神風特別攻撃隊第五神剣隊
  昭和二十年五月四日
  沖縄にて戦死
  三重県松阪市日野町出身
  十九歳

 イモウト ヤスコチヤン
 ヤスコチヤン、トツコウタイノニイサンハ シラナイダラウ。ニイサンモ ヤスコチャンハ シラナイヨ。
 マイニチ、クウシユウデ コワイダラウ。ニイサンガ カタキヲ ウツテヤルカラ、デカイボカンニタイアタリスルヨ。
 ソノトキハ フミコチヤント、ゴウチンゴウチンヲウタツテ、ニイサンヲヨロコバセテヨ。

  【昭和五十一年五月靖国神社社頭掲示】

大義に生きんと覚悟致して居ります

2013年2月18日 月曜日

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陸軍少佐 橋詰 良直 命
  昭和二十年二月二十四日
  東部ニューギニア・イロップにて戦死
  新潟県中頸城郡板倉村出身
  二十五歳

皇紀二六〇四年の新春を迎へ、謹みて新年を賀し奉ります。
御両親様には、愈々御壮健にてお暮らしのことと推察致し喜んで居ります。
当方面戦況益々緊迫を告げ、元旦と雖《いえど》も全てを忘れて新年を祝することも出来ず、頭は常に戦場に馳せて居ります。
敵情急速に変化を来し、今や敵を至近の距離に迎撃せんとして居ります。或はこれにて最後となるかも知れませんが、決して犬死はせん覚悟であります。
目下、某要職に就いて居ります。部下も或は沢山戦死をするでありませう。部下のみを殺しは致しません。
○○と運命を倶《とも》にし、身命の存する限り一意宿敵撃滅に邁進致します。
幼にして父母の膝下《しっか》を離れ、何等孝養を尽し得ざりしは甚だ残念に且《かつ》、心残りではありますが、大義に生きんと覚悟致して居ります。
兄さん弟には宜敷くお伝へ下さい。近所の皆様に宜敷く。
猶、私戦死の時は伊藤様にのみお伝へ下さい。
ここに最後のお便りをなし、お別れ致します。
                     敬 具

   【平成二十五年二月靖国神社社頭掲示】

元気でやって参ります

2013年1月21日 月曜日

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海軍少尉 束原 政春 命
  昭和二十年一月二十日
  台湾南方洋上にて戦死
  青森県青森市大字栄町出身
  二十五歳

四年目の正月を遂に、内地で迎へる事が出来ました。
正月早々、某方面へ出撃、又一働きする機会に恵まれました。
元気でやって参ります。
家の方もみんな元気で、土産ばなしでも待ってゐなさい。
時々、亡き戦友の仏前へ参って下さい。
荷物は、鉄道便で不要の物全部送ります。
破れた靴下やシャツが入ってゐますから、修繕して使って下さい。
大したものはないですが、何かの足しになるでせう。
荷物の中に手入してないものや、洗濯してないものがある予定ですから、よろしく御保存方御願ひします。
みんな体を大事に働き、勉強する事。
では、又便りします。
                              不 備
                             束原政春
  束原悦子殿
 酒の肴等送ってしまったのでしたら仕方ありませんが、未送付なれば送らずに下さい。

                           【平成二十五年一月靖国神社社頭掲示】

弱い心をお笑ひ下さい(軍服を脱いで行きます)

2012年12月3日 月曜日

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海軍大尉 旗生 良景 命
  神風特別攻撃隊八幡神忠隊
  昭和二十年四月二十八日
  南西諸島にて戦死
  京都帝國大學卒
  福岡県出身
  二十二歳

四月十六日
 今日は未だ生きてをります。昨日、父さん、母さん、兄姉にも見送つて頂き、全く清らかな気持で出発できました。
 敏子にお逢ひになつた由、皆何を感じられたか知りませんが、心から私が愛した、たつた一人の可愛い女性です。純な人です。私の一部と思つて何時までも交際して下さい。葬儀には是非呼んで下さい。
 お父様、お母様。本当に優しく心から私を可愛がつて頂きましたこと有難く御礼申します。私は一足先に死んでゆきますが、私が、あの弱かつた私が國に殉ずることを喜んで下さると思ひます。長い間御世話になり何一つ喜んで頂く様なことも致しませず相済まぬと思つて居ります。私の死はせめてもの恩返しと思つて下さい。
四月十七日
 今日も生きてゐます。皆に逢へて安心です。心に残るは敏子のことのみ。弱い心をお笑ひ下さい。然し死を前にして、敏子に対する気持の深さを今更の様に驚いてゐます。人間の真心の尊さを思つて下さい。
四月十八日
 軍服を脱いで行きます。真新しいのが行李(こうり)の中にありますから、それを家に、古い方を敏子に送つて下さい。必ずお願ひします。
 戦死がわかりましたら一度家に呼んで遺書等と一緒にお渡しになれば良いと思ひます。

   【平成五年十二月靖国神社社頭掲示】

遺言状

2012年11月19日 月曜日

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陸軍伍長 辻本 孝一 命
  昭和二十年十一月三十日
  ソ連シベリヤハバロフスク州
    コムソモリスク収容所にて戦病死
  大阪府大阪市浪速区出身
  二十三歳

本日、遂に此の書が開かれた。
小生は入営兼出陣の際より、生還を期せず。先づ、父上様始め皆様の御恩を謝す。
出陣の時より、家の生活に付ひては少しも気に掛けず、皆、初子、父上様に御委託済の事。
修二も軍属にて何処に有りや不明。家の事は、父上様に修二に宜敷き様、取計って頂き度い。
初子もよき人妻になる様。良一もしっかり勉強して、よき日本人になってくれ。
そして、皆力を合せ、父上様を助け、よき家庭を建設してくれ。家の心配事は自分等にて片付けず、宜敷く親族の方に御相談する様、小生よりも宜敷く別書に書いてある。
そして、家族一体幸福、安全を期して頂き度い。
修二よ。初子よ。花子よ。良一よ。
皆、皆、力を合せて父上を助け、大日本帝国の為、頑張ってくれ。
父上様にも充分身体に気を付けられ、楽しく余生を御過し下さい。

             以上
 昭和十九年三月
  入営、出発に際して
             孝 一

  父上様
  修二
  初子
  花子
  良一

  【平成二十四年十一月靖国神社社頭掲示】

私たちの若い美しい日(想恋賦………妻への手紙)

2012年11月5日 月曜日

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陸軍少尉 山川 弘至 命
  昭和二十年八月十一日
  台湾屏東、南飛行場にて戦死
   國學院大學卒
   岐阜県郡上群高鷲村出身
   二十八歳

 京子さん お手紙ありがたく拝読いたしました 私はあなたの手紙をどんなに待つてゐるか知れません(中略)そしていつもあなたのおたよりがつくと必死でよみます そこからすこしでもあなたに接してゐたいとおもふからです そしてあなたの手紙に感動したりよろこんだり 時には手紙が短かつたり 比較的平凡な生活の表面的報告であつたりすると 心からいきどほつたりいたします 私はあなたの文章のうちから何ものをかかぎ出さずにはおかないからです(中略) あなたの手紙が来てしばらくはいつも元気が出るのです しかしよろこびが大きい丈に期待にはづれるとふんがいします といつても之はあなたがいけないのではありません 私が我ままなのですから どうか我ままな私をゆるして下さい(中略)あなたがあるといふことは 他の人に比していかに私は幸でせうか 只々すべてに感謝あるのみであります(中略)
 私たちはあの日あつい涙で二人して誓つたことを どんなことがあつても忘れません 必ず生きてかへりますから そしてきつときつとあなたを幸せにすることを誓ひますから それまでどんなことがあつてもまつてゐて下さい 私たちの若い美しい日を必ず必ず二人で築き上げませう(後略)

   【昭和四十四年八月靖国神社社頭掲示】