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前線の匂ひがみなぎつてゐます(顔を見るだけで満足)

2013年7月1日 月曜日

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陸軍軍属 松村 雪子 命
  陸軍軍属 松村 雪子 命
  昭和十九年一月二十三日
  中国広東省番禺県秀木橋にて戦死
  名古屋市中区西瓦町出身
  第百四師団司令部副官部所属
  二十三歳

(前略)
 昭和十九年の決戦態勢に入りまして、こちらも何だかきびしい空気がただよつてゐます。國民がいよいよ一丸となる秋《とき》が参りましたね。
 先日の臨休の時、野戦病院と陸軍病院を慰問しました。内地とちがつて野戦病院は看護婦さんも無く、殺風景な男の人バカリの灰色の感じが致します。
 私達の差し上げるお花をとても嬉しさうに動けない身体を無理にずらせて瞳の中に嬉しさを一杯あらはしていらつしやる姿には、涙がこぼれます。
 戦地といつても広東は平和そのもので内地より物資も豊富ですので私達も南支へ来てもさほど胸をつくものがありませんが、かうして病院へいつたりしますと前線の匂ひが多分にみなぎつてゐます。私達もその内に前線へ慰問に参る予定ですが何《いず》れも芸無し猿ですから困つて居りましたら、兵隊さんは顔を見るだけで満足だと伺ひます。(後略)
 一月十六日
                               ゆき子
兄 上 様
姉 上 様

  【平成十四年十一月靖国神社社頭掲示】

更級横多神社社頭に於いての出征挨拶

2013年5月20日 月曜日

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陸軍大尉 望月 重信 命
       昭和十九年五月二十二日
       フィリピンにて戦死
       長野県更級郡篠ノ井町出身
       三十五歳

本朝はかくも早々皆様の熱誠なる御歓送をいただきまして、まことに感謝に堪へません。私は皆様の御心に報ゆべく、必ず全力を尽して御奉公を致す覚悟であります。
今やこの非常時は、今までの戦争の様に、単に世界の地図が塗り変へられるといふ丈のものではありません。世界人類の歴史の上に、数百年の大きな時代を画して、人類の人生観が、国家観が、世界観が、政治の上にも、教育の上にも、経済の上にも、芸術の上にも、宗教の上にも、その他一切に大ひなる飛躍をなさむとしてゐるのであります。新らたなる世界が、我が皇国日本を母体として生れむとしてゐるのであります。(中略)
戦死すると云ふ事は、人生本来の約束から観れば、それ程驚く可き事でも、またさして悲しむべき事でもありません。増してや、天皇の御為にこの一命を捧げます事は、日本男子の本懐であります。吾等は只、この生れては死に、死んでは生れてゆく悠久なる人生の連鎖に於て、如何にして永遠の生き甲斐に生き、さうして不滅の死に甲斐に死ぬかと言ふ事であります。(中略)
私は本日、大命を拝して勇んで戦線にのぞみます。もとより生還は期して居りません。
然し、私達をして死に甲斐あらしむるか否かは、あとに残られた皆様の責任であります。今後まだまだ大なる、それこそ非常なる艱難が国家の上に、皆様の上に、必ず振りかゝって来るのでありませう。その時になって、どの様な苦しい事があっても、皆様は決してへこたれたり、悲鳴をあげるやうな事があってはなりません。どうかこの事をこの社前におきまして、くれぐれもお願ひ致しまして出発のご挨拶と致します。終りにのぞみまして、村内皆様の御健康を祈ります。
                      終り
    昭和十四年五月一日

   【平成二十五年五月靖国神社社頭掲示】

私の正反対な性格の人間になつて呉れ(グアム島の遺書)

2013年1月6日 日曜日

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海軍軍属 石田 正夫 命
  昭和十九年八月八日
  グアム島にて戦死
  兵庫県加東郡東条村出身
  三十七歳

 昨夜子供の夢を見て居た。父として匠に何をして来たか。このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。
 強く生きてほしい。そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。
                             合 掌

 三月○日 内地の様子が知りたい。聞きたい。毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟して来てゐる。万策つきれば、いさざよく死なう。

 本月の○日頃が、また危険との事である。若(も)し玉砕してその事によつて祖國の人達が少しでも生を楽しむ事が出来れば、母國の國威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。
 遠い祖國の若き男よ、強く逞(たくま)しく朗らかであれ。
 なつかしい遠い母國の若き女達よ、清く美しく健康であれ。

  【昭和三十九年十一月?國神社社頭掲示】

遺書

2012年12月17日 月曜日

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陸軍少佐 山本 卓美 命
  昭和十九年十二月七日
  比島レイテ島付近にて戦死
  福岡県糸島郡前原町出身
  二十一歳

父上様
母上様

                     卓美ハ
オ先ニ失礼致シマス。
二十有余年ノ間、此ノ上ナク可愛ガッテ頂キマシタ。
山ヨリモ高ク、海ヨリモ深キ養育ノ御恩ニ何等報
ユル所ナク、御心配ヲカケ通シテ参リマシタガ、
今ヤ御恩ノ万一ニ報ユル時ガ参リマシタ。
光栄アル八紘隊長ニ選バレ、南海ニ水漬ク屍トナ
ルハ男子ノ本懐、只々感謝感激ノ外アリマセン。
信ズルハ 皇国ノ必勝
祈ルハ  皇運ノ無窮
靖国神社デ、オ待チ致シテ居リマス。
御両親様、幸福ニ御暮シ下サイマス様、心ヨリ祈
リ上ゲマス。
  昭和十九年十一月三十日

                    山本卓美

   【平成二十四年十二月靖国神社社頭掲示】

安らかに大きくなれ

2012年10月15日 月曜日

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海軍大尉 田村 清 命
  海軍大尉 田村 清 命
  昭和十九年十月二十七日
  比島レイテ島東方
    サマール島沖にて戦死
  千葉県安房郡瀧田村出身
  四十四歳

愛する良子(よしこ)、恭子、光子、和代よ。
父なしとて悲しむなかれ。父は聖戦に於て、名誉ある戦死をしたのだ。
御前達は、生前の父をよく知るまい。良子も恭子も永久に記憶に残る程の印象はあるまい。然し、父は御前達の健康さうな、いとしい幼顔が、印象にハッキリして居る。
父は、作業地(訓練地)にあるときも、戦場にあるときも御前達のなつかしい姿を思ひ浮べては、元気を出して居た。
父は、御前達が揃って健康で、満足な五体を所有して居るので、何の懸念もない。安らかに戦死が出来る。
児等よ!安らかに大きくなれ・・・大きくなったら母の意に背かず、父を辱かしめず立派な日本の女性として雄しく生きて呉れ。
姉妹は仲よく結束して、一人の母を守れ。(中 略)
「父恋しくば?國神社へ」とは、父も映画でも見た。本当にさうだ!御前達も名誉の遺児として、社頭の対面もさして頂けるだらう。其の時は、肩身を広く九段に来て呉れ。(中 略)
言ひ遺す事は夫れ丈だ。皆シッカリ育て!
 十一月
               父より
愛する児供達へ

   【平成二十四年十月靖国神社社頭掲示】

決戦場へ征きます

2012年9月17日 月曜日

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陸軍軍曹 藤好 京介 命
  昭和十九年九月三十日
  東部ニューギニアにて戦死
  福岡県三池郡高田村出身
  二十七歳

御父上様。
御母上様。
京介は、愈々日本男子として、決戦場○○へ征きます。
電撃的出撃に、光栄と希望と武者ぶるひにて、この筆をとって居ます。
今、静かに生立ちを振り返る時、生を享けて二十六年の今日迄、御両親様には取り分け御心配の掛け続けにて、御高恩の万分の一も御孝養出来なかった豚児(とんじ)を御許し下さい。
何卒、呉々も御自愛になり、健やかな日を御過し遊ばす様、心より御祈り致します。
それから、自分の今後に於ける一切の事柄に関する処置は、総て御両親様に御任せ致します故、宜しく御取計り下さいませ。
又、松田様始め、私が今迄に御世話になりました方々には、御両親様より宜しく御伝へ下さいませ。
中林町の伯父上様にも御高齢の事とて、折角の御自愛と私の感謝とを御伝へ下さいませ。
最後に重ねて御両親様始め、兄上様方妹達の御健康とを祈って筆を擱(お)きます。
   昭和十八年○月○日
                             藤好京介
藤好虎秀様
藤好タキ様

最後の外出は、とても愉快でした。ブドー酒の乾杯で幸先よいです。

  【平成二十四年九月靖国神社社頭掲示】

立派に軍人の本分を尽す覚悟であります

2012年8月20日 月曜日

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海軍一等機関兵曹  柳澤 幸信 命
  昭和十九年八月十日
  マリアナ諸島グアム島にて戦死
  徳島県徳島市矢三町出身
  二十一歳

拝啓。
初秋の頃と相成りました。
其の後、お父さん始め御一同様には、何のお変りもなくお過しの由、何よりと存じます。
降(くだ)って、小生も日々元気旺盛、軍務に精励致してゐます故、他事乍ら御休心下さい。
お願ひして御座居ました品物及び千人針、お守確かに受取りました。
いざと言ふ時には、この千人針をしっかと腹に巻き、立派に軍人の本分を尽す覚悟であります。
もう故郷の方も稲の穂も頭を下げ、お祭の近づいた事を見せてゐる事でせう。
小生も去年は、内にゐて御馳走をたんまり食べましたが、今年はもうだめですね。ハ・・・。
それから、尚もう一つお願ひがあるのですが、家内一同写した写真がありましたら、一枚お送り下さいますか。
もう半年、家内の者の顔を見ぬと一人淋しくなります。
では、今日はこれくらいでお別れします。
向秋の折、御一同様呉々もお体大切に。
         又後便にて
                 幸信
懐かしい
  御一同様へ

  【平成二十四年八月靖国神社社頭掲示】

ニューヨークの真只中に突進したく(銃後も奮闘を)

2012年4月16日 月曜日

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海軍主計少佐  樋口 征太郎 命
  昭和十九年九月十三日
  比島セブ北方海上にて戦死
  大阪市阿倍野区出身 二十五歳

(前略)
 戦局愈々(いよいよ)苛烈となりサイパン島も遂に玉砕し内地の皆様も切歯扼腕(せっしやくわん)され居る事と存じます。吾々も出来れば爆弾をいだきてニューヨークの真只中に突進したく歯ぎしりかんで居ります。只今亦(また)東條内閣総辞職の内地放送を聞きました。吾々は最早生きて帰るなどとは夢にも考へては居りませんが内地の皆様かこれしきの事にて些(いささ)かにても志気沮喪(そそう)されざらん事を心より祈るのみです。
 まだまだこの戦はこれ位のものではありません。更に猛烈化し、内地は毎日空襲を受ける様になる事でせう。吾々現地の者はどれだけ敵の攻撃が猛烈化しても祖国の必勝を固く信じて奮闘して居ります。一刻も早く増産の結果を戦地にもたらされん事を待つて居ります。
 では皆様もお身体に気を付けられて銃後に奮闘されん事をお祈り致し居ります。私も身体には充分気を付けて居ります故何卒御安心被下度お願申上ます。では又お便り致します。
                  敬 具
 父 上
 母 上 殿
 英 子
                征太郎より

  【平成九年九月靖國神社社頭掲示】

あの空は晴れて居りました

2012年3月7日 水曜日

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陸軍伍長  大石 穂積 命

  昭和十九年八月十九日
  比島レイテ沖バシー海峡にて戦死
  明治大学在学中応召
  静岡県榛原郡初倉村出身
  二十三歳

 母に告ぐ
 穂積はいろいろとお世話をかけましたが 今やつと人なみとなつて死ねます 病気等で本当にお世話になりました どうか母さん余生を楽しく暮らし
て下さい さうして穂積の墓に参る事を一つの喜びとして下さい
 姿こそなけれども穂積は母さんのもとに居ります 大石家の男系はこれで絶
えました しかし古くは楠公に 新しくは乃木将軍に 大石家は必ず穂積が何
処かで見てゐるでせう
 母さんは若いときより苦労しました 穂積はよく知つて居ります 今までに
母さんの一番嬉しかつた事は昭和十七年の秋東京見物に行つた時だと思ひます
 あの日光の水は本当に美しく あの空は晴れて居りました あの日の母さん
の顔が瞼(まぶた)に浮んで参ります
 母さん素子を日本の女として下さい

 妹に告ぐ
 素子よ 兄は今莞爾(かんじ)として戦死する お前は元来無邪気である様
だ その純真さを何処までも盛り上げて 日本の女となれ さうして?兄あり
き?と想ひ出してくれ

 姉に告ぐ
 幼い時よりの姉さんだ 俺は今日本の武士として戦死する 今まで永らくお
世話になつた厚く御礼する
 時々は田舎へ帰つて母さんと素子で俺の墓に来てくれ
 何も思ひ残すことはない

  【平成十年八月靖国神社社頭掲示】

戦地からの葉書

2011年7月1日 金曜日

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戦地からの葉書

  陸軍兵長  倉本和三郎 命

  昭和十九年七月十三日
  中国湖南省邵陽縣白鶴舗にて戦死
  京都府京都市東山区出身 三十五歳

 其之後ハ、御無沙汰シテ居リマス。
 家内一同、変リハ無イデスカ。
 又、子供等ハ達者デアルカ。
 百姓仕事ヤ、工場仕事モ大変忙ガシイ事ト思ヒマス。
 出来ル丈気張テ働クノガ、銃後(じゅうご)ノ務(つと)メデス。
 寒ク成ッテ来マシタカラ、風邪ニカカラヌ様注意。又、火ノ用心ニ特ニ気ヲ付ケル事。
 村ノ務メヤ、交際ハ十分ニナサイ。
 ペントナイトノ状況ハドウカ。
 機械ノ調子ハウマク行クカ。
 稲ノ取入モ近ヅイテ来マシタ。大イニ努力セヨ。
 自分ハ、非常ニ元気デ御奉公シテ居リマス。
 奥田吉造殿ニ宜敷ク云ッテ呉レ。スベテノ事ハ尋ネナサイ。
 自分ヲ何ヨリモ大切ニセラレ度シ。

                            【平成二十三年七月靖国神社社頭掲示】