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遺書

2014年7月21日 月曜日

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陸軍曹長 三浦 武男 命
  昭和○十○年○月○日
  マリアナ諸島サイパン島で戦死
  愛知県愛知郡豊明村出身
  三十歳

一枝
長い間、色々と御世話になりました厚く御礼申し上げます。
此の御恩は、いつまでも忘れは致しません。
今日の日の有ることを既に覚悟してゐて呉れたことと思ふ。
戦死したならば、御國の為と喜んで呉れ。笑って大東亜建設の投石となって戦死致します。
一枝や淳、又、生れ来る子供のことを思ふと夫として、又、親として何らの責任も果たさず、幸福にさせることが出来なかったのを唯一つ心に残り、可愛さうに思ひますと共に、済まない思ひが致しますがこれも御國の為と泣かずに喜んで呉れ。
たとへ、此の身は戦場に於て露と消へても、魂となって祖國を守り一枝や淳、又、生まれ来る子供を守って居ります。
信じ切って居る一枝。私が常に言って居る様に、正しい道をふみ行なって天地に恥じざる行動をとっていただきたい。
淳と生まれ来る子供を立派に教育し育て、家を継がせて呉れるのを草葉の蔭から祈って居ります。逢ひたくば、靖國の杜に来て呉れ。待って居ります。
                 武 男

昭和十九年五月二日
一 枝 殿

  【平成二十六年七月靖國神社社頭掲示】

前線の匂ひがみなぎつてゐます(顔を見るだけで満足)

2013年7月1日 月曜日

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陸軍軍属 松村 雪子 命
  陸軍軍属 松村 雪子 命
  昭和十九年一月二十三日
  中国広東省番禺県秀木橋にて戦死
  名古屋市中区西瓦町出身
  第百四師団司令部副官部所属
  二十三歳

(前略)
 昭和十九年の決戦態勢に入りまして、こちらも何だかきびしい空気がただよつてゐます。國民がいよいよ一丸となる秋《とき》が参りましたね。
 先日の臨休の時、野戦病院と陸軍病院を慰問しました。内地とちがつて野戦病院は看護婦さんも無く、殺風景な男の人バカリの灰色の感じが致します。
 私達の差し上げるお花をとても嬉しさうに動けない身体を無理にずらせて瞳の中に嬉しさを一杯あらはしていらつしやる姿には、涙がこぼれます。
 戦地といつても広東は平和そのもので内地より物資も豊富ですので私達も南支へ来てもさほど胸をつくものがありませんが、かうして病院へいつたりしますと前線の匂ひが多分にみなぎつてゐます。私達もその内に前線へ慰問に参る予定ですが何《いず》れも芸無し猿ですから困つて居りましたら、兵隊さんは顔を見るだけで満足だと伺ひます。(後略)
 一月十六日
                               ゆき子
兄 上 様
姉 上 様

  【平成十四年十一月靖国神社社頭掲示】

嫁ではなく、我子と思つて(妻のことたのみます)

2012年10月1日 月曜日

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海軍工作兵曹長 小笠原 嘉明 命
  戦艦「大和」乗艦
  昭和二十年四月七日
  九州坊ノ岬南方沖合にて戦死
  愛知県出身
  二十九歳

 我、軍人としての本分を立派に果し、神風大和艦上に最期を飾るは、我、無上の譽(ほま)れと深く心に銘記し笑つて死すものなり。
 御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。夫婦の契を立て、二世を誓ひし以上は、我と一心同体なりし事は申す迄もないと存じまする。ましてや我は國難に殉じる軍人です。其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、此に一言遺書を記すものなり。
 (中略)
一、里方へ歸(かえ)るも可なれど、里方にては御迷惑せられますれば、我家にゐては居辛く本人としては我家を出て靜かに自活したき希望なれば、本人の希望通りに自力自活の道に進む様御願ひ申し上げます。
其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。
再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置て戴きたく御願ひ申し上げます。
一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、可愛がれば愛子とても孝養せなくてはならなくなると我は存じますれば、嫁と思はず、我子と思はれまして可愛がつて下さいます様御願ひ申し上げます。
 (後略)

  【平成十九年三月靖国神社社頭掲示】

何故武人の花と散り得なかつたか(病床に八月十五日を迎へて)

2012年8月6日 月曜日

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陸軍曹長 山本 四郎 命
  昭和二十年十月十五日
  傷痍軍人愛知療養所にて戦病死
  愛知県出身
  二十九歳

   最後の便り(抄)
 御両親様
 長い間、良くおいつくしみ下さいました。
 思へば二十九年、短い様で長い年月をはぐくまれ育つた私は幸福でした。
 けれど運命は何処迄も皮肉でした。八月十五日の降伏は、私のすべてを失つて仕舞ひました。海山の御恩の万分の一にも報い得ず、死んでいくことを深くお詫び致します。
 しかし、今度の不幸は私どもだけのものでは御座居ません。お國の不幸で、戦ひに負けると言ふ事は、すべての人々を悲しい事に致します。偉い人は偉い様に、金持は金持の様に、身分に相応してをり、私は誰もうらみません。すべては運命です。定めです。
 一人子を特攻隊に捧げた人も、二人三人といとし子を戦死させた人もあります。或いは又、幾人もの幼な子をのこして死んだ人も御座います。
 只残念なのは、永き軍隊生活をした私が武運拙(つたな)く、数年を病床になげいて死ぬ、何故武人の花と散り得なかつたでせうか。又ぐちになつて仕舞ひました。
 では、なごりつきません。何度も申します。からだに随分と気をつけて、いつまでも、いつまでも強く強く生きて下さい。御機嫌よう。お月様のやうなきれいな心で笑つて参ります。
                四 郎
 昭和二十年十月十日

  【昭和六十三年八月靖国神社社頭掲示】

我が故郷

2012年4月2日 月曜日

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海軍大尉 小久保 節彌 命
  昭和二十年四月十六日
  南西諸島にて戦死
  愛知県渥美郡伊良湖岬村出身
  二十四歳

我が故郷。
何と美しき四季とりどりの花は咲き、鳥は歌ひ山あり海あり。
太平洋の何と雄大なる、あの土用波の光景が眼にうかぶ。
椿は咲く。紅い花が咲く。
その下で図画を書いた事もあったっけ。
ゑのぐ筆をなめなめ稚い絵を書いた。
或いは夕野田に鮒釣に行った。
稲を荒して叱られた事もあったっけ。
海!そのもつひびき何と雄々しき事よ。
幼時より海辺に育ち真に偉大なる海に親しむ事が出来た。
ドンとうつ波の音は太古より未来永久につづくであらう。
我が故郷よ。無尽の幸あれ。
然して生れ来る国の童等を何時までも何時までも育んで呉れ。
我がふるさと人よ。
何時までも何時までも、純粋であってくれ。

  (遺稿『句集 はまゆふ』から抜粋)

 【平成二十四年四月靖国神社社頭掲示】

雑煮も汗を出して腹一杯戴きました

2012年1月4日 水曜日

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陸軍伍長  松浦義一命
    昭和十八年一月十日
    ソロモン群島ガダルカナル島
    タサワロングにて戦病死
    愛知県東春日井郡小牧町出身
    二十五歳

前略。
待ち遠しかった内地からの第一信の航空便、先月二十七日に受取りました。
余りの嬉しさに幾度もくも読み返しました。
実に、便り程いいものは有りません。お手紙によって故郷の様子もよく分り大変喜んで居ります。
大分寒くなった様子ですね。此方も先月は大分朝夕冷えましたが、一月になってからは寒い日はありません。
(中 略)
次に十六年の元旦は討伐中に迎へ、実に感慨無量なものがありました。
正月の三日間も実に愉快に送りました。雑煮も汗を出して腹一杯戴きました。
兵舎の前の門松も実に堂々たるものです。この門松の前で写真を撮って戴きましたから、これも出来次第お送り致します。
次に同封の写真二枚は任地に到着間(ま)もなく撮って戴いたものです。御笑納下さい。
それから、この外まだ色々の写真がありますが、これ等も追々御送り致します。
兎(と)に角(かく)、写真の通りの元気さですから御安心下さい。(後略)

一月四日
                                              義 一
 父 上 様

遺言書

2011年2月18日 金曜日

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遺言書

         海軍少尉 野村龍三命
         神風特別攻撃隊琴平水心隊
         昭和二十年五月四日
         沖縄周辺洋上にて戦死
         海軍甲種飛行予科練習生第十三期
         愛知県出身 十八歳

         神風特別攻撃隊水心隊
         海軍二等飛行兵曹 野村龍三

古今未曾有ノ國家一大興亡ノ此ノ時沖縄周辺ノ敵撃滅ノ為勇躍征途ニ向ヒマス
生ヲ享ケテ十八年何等ナス事ナク不孝ニ不孝ヲ重ネテ参リマシタ事御詫ビ致シマス
然シ乍ラ今ヤ陛下ノ御楯ト此ノ若キ身ヲ捧ゲ奉ルコトノ出来マシタ此ノ光栄モ一ニ御両親様ノ御蔭デアリマス

辞世

男児等乃燃えて燃えてし大和魂
身は九重乃花と散るらん

 特攻隊愛機ト共ニ搭乗員トシテ死ヲ共ニスルコトノ出来ル無上ノ光栄ヲ今飾レルコトガ出来マシタ
 神國日本ハ必ズ勝チマス
 勝利ノ日迄皆様ノ御健闘ヲ御祈リ致シマス
 龍三ヨクヤツテ呉レタト一言デモヨイカラ云ツテ下サイ

 昭和二十年四月二十八日
 出撃一時間前

 御両親様

【平成九年五月靖国神社社頭掲示】

謹みて靖国神社の神霊に申す

2010年8月19日 木曜日

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謹みて靖国神社の神霊に申す

        陸軍憲兵軍曹 近 藤 巖 命
        昭和二十年八月十九日
        東京九段靖国神社にて責任自決
        愛知県出身 二十二歳

 謹みて靖国神社の神霊に申す
 本日復員の命下れり。皇國の必勝を信じ、
 護持の大任を完(まっと)ふされし靖国の神霊に
 何と申し上ぐべきや。
 只、吾が責務の完(まった)からざるを思ひ、
 此処に一死以て詫びんとす。

 陸軍憲兵軍曹 近 藤 巖

 遺言

 謹みて御両親様に申し上げます。
 本日復員の命下り、帰郷の余儀なきに至りました。
 真に無念に存じます。
 多くの戦友に先立たれ、
 軍人の本分を完(まっと)ふせず、
 今更何んで帰られませう。巖の胸中、お察し下され。
 武人として、又、自己の信念の大道を進むべく、
 此処に死を決します。お許し下され。
 生を受けてより此の方、二十四年有余。
 此の間の御両親様の御辛労、深く深く感謝致します。
 後に残りし弟二人、立派に御薫陶の上、
 皇國護持の為に尽さしめられたく
 お願ひ申し上げます。
 折角御自重遊されたく。

 昭和二十年八月十八日

 巖
 御両親様 

【平成二十二年八月靖国神社社頭掲示】

よき同伴者を求めてください

2009年5月18日 月曜日

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よき同伴者を求めてください

       陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命
       昭和十九年七月十八日
       マリアナ諸島にて戦死
       愛知県北設楽郡名倉村出身 二十六歳

季代子、かう呼びかけるのが最後になりました。短かったけれど優しい妻でした。有難く御礼を申上げます。(中略)折角、永遠の誓ひを致しながら、最後になりますのは何かしら心残りですけれど、陛下の御楯として果てる事は私にとりましても光栄と存じます。
短かい生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき申訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は決して幸福ではありませんから、佳き同伴者を求めてください。
私は唯幸福な生活をして頂けますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して哀しみません。(中略)どうぞ御健やかに御活し下さいます様お祈り致してゐます。
さやうなら

昭和十九年五月三日

伊藤 甲子美
季代子様

【平成二十一年五月靖国神社社頭掲示】