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遺言状

2012年11月19日 月曜日

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陸軍伍長 辻本 孝一 命
  昭和二十年十一月三十日
  ソ連シベリヤハバロフスク州
    コムソモリスク収容所にて戦病死
  大阪府大阪市浪速区出身
  二十三歳

本日、遂に此の書が開かれた。
小生は入営兼出陣の際より、生還を期せず。先づ、父上様始め皆様の御恩を謝す。
出陣の時より、家の生活に付ひては少しも気に掛けず、皆、初子、父上様に御委託済の事。
修二も軍属にて何処に有りや不明。家の事は、父上様に修二に宜敷き様、取計って頂き度い。
初子もよき人妻になる様。良一もしっかり勉強して、よき日本人になってくれ。
そして、皆力を合せ、父上様を助け、よき家庭を建設してくれ。家の心配事は自分等にて片付けず、宜敷く親族の方に御相談する様、小生よりも宜敷く別書に書いてある。
そして、家族一体幸福、安全を期して頂き度い。
修二よ。初子よ。花子よ。良一よ。
皆、皆、力を合せて父上を助け、大日本帝国の為、頑張ってくれ。
父上様にも充分身体に気を付けられ、楽しく余生を御過し下さい。

             以上
 昭和十九年三月
  入営、出発に際して
             孝 一

  父上様
  修二
  初子
  花子
  良一

  【平成二十四年十一月靖国神社社頭掲示】

嫁ではなく、我子と思つて(妻のことたのみます)

2012年10月1日 月曜日

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海軍工作兵曹長 小笠原 嘉明 命
  戦艦「大和」乗艦
  昭和二十年四月七日
  九州坊ノ岬南方沖合にて戦死
  愛知県出身
  二十九歳

 我、軍人としての本分を立派に果し、神風大和艦上に最期を飾るは、我、無上の譽(ほま)れと深く心に銘記し笑つて死すものなり。
 御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。夫婦の契を立て、二世を誓ひし以上は、我と一心同体なりし事は申す迄もないと存じまする。ましてや我は國難に殉じる軍人です。其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、此に一言遺書を記すものなり。
 (中略)
一、里方へ歸(かえ)るも可なれど、里方にては御迷惑せられますれば、我家にゐては居辛く本人としては我家を出て靜かに自活したき希望なれば、本人の希望通りに自力自活の道に進む様御願ひ申し上げます。
其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。
再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置て戴きたく御願ひ申し上げます。
一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、可愛がれば愛子とても孝養せなくてはならなくなると我は存じますれば、嫁と思はず、我子と思はれまして可愛がつて下さいます様御願ひ申し上げます。
 (後略)

  【平成十九年三月靖国神社社頭掲示】

決戦場へ征きます

2012年9月17日 月曜日

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陸軍軍曹 藤好 京介 命
  昭和十九年九月三十日
  東部ニューギニアにて戦死
  福岡県三池郡高田村出身
  二十七歳

御父上様。
御母上様。
京介は、愈々日本男子として、決戦場○○へ征きます。
電撃的出撃に、光栄と希望と武者ぶるひにて、この筆をとって居ます。
今、静かに生立ちを振り返る時、生を享けて二十六年の今日迄、御両親様には取り分け御心配の掛け続けにて、御高恩の万分の一も御孝養出来なかった豚児(とんじ)を御許し下さい。
何卒、呉々も御自愛になり、健やかな日を御過し遊ばす様、心より御祈り致します。
それから、自分の今後に於ける一切の事柄に関する処置は、総て御両親様に御任せ致します故、宜しく御取計り下さいませ。
又、松田様始め、私が今迄に御世話になりました方々には、御両親様より宜しく御伝へ下さいませ。
中林町の伯父上様にも御高齢の事とて、折角の御自愛と私の感謝とを御伝へ下さいませ。
最後に重ねて御両親様始め、兄上様方妹達の御健康とを祈って筆を擱(お)きます。
   昭和十八年○月○日
                             藤好京介
藤好虎秀様
藤好タキ様

最後の外出は、とても愉快でした。ブドー酒の乾杯で幸先よいです。

  【平成二十四年九月靖国神社社頭掲示】

絶対にひみつです(別れ)

2012年9月3日 月曜日

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陸軍伍長 石橋 義郎 命
  昭和十七年二月四日
  比島ルソン島にて戦死
  三重県出身
  二十四歳

先日は突然にて失礼致しました。
無事に帰隊致しましたから安心下さい。
今日上田君が家にかへりましたのでことづけます。
これが父母上様にもお別れとなると思ひます。
でもまだはつきりわかりませんがもうお目にかゝる時はないと思ひます。
決してこれはひみつですから他へもらさないで下さい。
こゝにつめをいれましたもしかの時がありましたらこれにてお願ひします。
では皆々様御身大切にお別れ致します絶対にひみつですからもらさぬ様お願ひ致します。
 面会も出来るか出来ぬかわかりませんから来ないで下さい、ではさやうなら。

 父上様

  【平成三年十一月靖国神社社頭掲示】

立派に軍人の本分を尽す覚悟であります

2012年8月20日 月曜日

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海軍一等機関兵曹  柳澤 幸信 命
  昭和十九年八月十日
  マリアナ諸島グアム島にて戦死
  徳島県徳島市矢三町出身
  二十一歳

拝啓。
初秋の頃と相成りました。
其の後、お父さん始め御一同様には、何のお変りもなくお過しの由、何よりと存じます。
降(くだ)って、小生も日々元気旺盛、軍務に精励致してゐます故、他事乍ら御休心下さい。
お願ひして御座居ました品物及び千人針、お守確かに受取りました。
いざと言ふ時には、この千人針をしっかと腹に巻き、立派に軍人の本分を尽す覚悟であります。
もう故郷の方も稲の穂も頭を下げ、お祭の近づいた事を見せてゐる事でせう。
小生も去年は、内にゐて御馳走をたんまり食べましたが、今年はもうだめですね。ハ・・・。
それから、尚もう一つお願ひがあるのですが、家内一同写した写真がありましたら、一枚お送り下さいますか。
もう半年、家内の者の顔を見ぬと一人淋しくなります。
では、今日はこれくらいでお別れします。
向秋の折、御一同様呉々もお体大切に。
         又後便にて
                 幸信
懐かしい
  御一同様へ

  【平成二十四年八月靖国神社社頭掲示】

何故武人の花と散り得なかつたか(病床に八月十五日を迎へて)

2012年8月6日 月曜日

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陸軍曹長 山本 四郎 命
  昭和二十年十月十五日
  傷痍軍人愛知療養所にて戦病死
  愛知県出身
  二十九歳

   最後の便り(抄)
 御両親様
 長い間、良くおいつくしみ下さいました。
 思へば二十九年、短い様で長い年月をはぐくまれ育つた私は幸福でした。
 けれど運命は何処迄も皮肉でした。八月十五日の降伏は、私のすべてを失つて仕舞ひました。海山の御恩の万分の一にも報い得ず、死んでいくことを深くお詫び致します。
 しかし、今度の不幸は私どもだけのものでは御座居ません。お國の不幸で、戦ひに負けると言ふ事は、すべての人々を悲しい事に致します。偉い人は偉い様に、金持は金持の様に、身分に相応してをり、私は誰もうらみません。すべては運命です。定めです。
 一人子を特攻隊に捧げた人も、二人三人といとし子を戦死させた人もあります。或いは又、幾人もの幼な子をのこして死んだ人も御座います。
 只残念なのは、永き軍隊生活をした私が武運拙(つたな)く、数年を病床になげいて死ぬ、何故武人の花と散り得なかつたでせうか。又ぐちになつて仕舞ひました。
 では、なごりつきません。何度も申します。からだに随分と気をつけて、いつまでも、いつまでも強く強く生きて下さい。御機嫌よう。お月様のやうなきれいな心で笑つて参ります。
                四 郎
 昭和二十年十月十日

  【昭和六十三年八月靖国神社社頭掲示】

父母ニ誓フ

2012年6月18日 月曜日

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海軍二等飛行兵曹  和田 博之 命
  昭和二十年六月十日
  土浦海軍航空隊に於て
       空襲のため戦死
  群馬県高崎市新町出身
  十九歳

一、永年、親不孝ヲシタ罪ノ償ヒニ、粉骨砕身御国ノ為ニ働クト共ニ、父母ニ対シ真心ヨリ仕(つか)ヘル事ヲ、心ヨリ誓ヒマス。

二、二度ト父母ニ対シ心配ヲ掛ケズ、自分ノ体ヲ大切ニ、何時モ元気デ朗ラカニ、真面目ニ働キマス。

三、常ニ弟妹ノ良キ模範トナリ、立派ニ指導シ、兄弟妹ソロッテ親孝行シマス。

四、本日以後、「父サン」「母サン」ト称ヘ、孝ヲ誓ヒマス。

   昭和二十年五月二十二日

                   和田博之

  「身体髪膚(はっぷ)之ヲ父母ニ受ク、
     敢テ毀損(きそん)セザルハ、孝ノ始メナリ」
  「親思フ 心ニ勝ル 親心
     今日ノ訪レ 何ト聞クラン」

  【平成二十四年六月?國神社社頭掲示】

お母さん

2012年5月23日 水曜日

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陸軍衛生軍曹  向川 敬昌 命
  昭和二十年五月十七日
  比島群島ルソン島ヌエバビスカヤ州
           ラクタワン町にて戦死
  富山県西砺波郡石動町出身
  二十六歳

お母さん。
敬昌は立派に天皇陛下万歳と笑って、祖国の為に南に散って征きます。
二十何年の長い間の限りなき愛を思へば、有難く只感謝の外ありません。
それに引きかへ、何ら御両親の恩愛に報ゆる事の出来なかった不甲斐ない己を想ふと、悲しく心から泣けます。不孝の罪は御許し下さい。
敬昌は、今は宿敵米撃滅の鬼となり、尊い血汐を流し比島の土と化します。
長い間、有難う御座いました。後の事は宜敷く御願ひ致します。
お母さんも達者で、長寿を全うされん事を、遠い異国の草葉の蔭より御祈り致して居ります。
姉にも妹にも悪い兄であり、弟であった事を深く御詫び致します。
私に
  金銭の貸し借りなし
  婦女の関係なし
                   比島にて
                  向川敬昌拝
 母上様
  一、ちりほどに 心に残る 何もなし
     今日限りの 夕暮れのそら
  一、今はただ 怒りに燃へて 夷(えみし)らを
     根こそ攘(はら)はむ いのち捧げて

  【平成二十四年五月靖国神社社頭掲示】

あの空は晴れて居りました

2012年3月7日 水曜日

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陸軍伍長  大石 穂積 命

  昭和十九年八月十九日
  比島レイテ沖バシー海峡にて戦死
  明治大学在学中応召
  静岡県榛原郡初倉村出身
  二十三歳

 母に告ぐ
 穂積はいろいろとお世話をかけましたが 今やつと人なみとなつて死ねます 病気等で本当にお世話になりました どうか母さん余生を楽しく暮らし
て下さい さうして穂積の墓に参る事を一つの喜びとして下さい
 姿こそなけれども穂積は母さんのもとに居ります 大石家の男系はこれで絶
えました しかし古くは楠公に 新しくは乃木将軍に 大石家は必ず穂積が何
処かで見てゐるでせう
 母さんは若いときより苦労しました 穂積はよく知つて居ります 今までに
母さんの一番嬉しかつた事は昭和十七年の秋東京見物に行つた時だと思ひます
 あの日光の水は本当に美しく あの空は晴れて居りました あの日の母さん
の顔が瞼(まぶた)に浮んで参ります
 母さん素子を日本の女として下さい

 妹に告ぐ
 素子よ 兄は今莞爾(かんじ)として戦死する お前は元来無邪気である様
だ その純真さを何処までも盛り上げて 日本の女となれ さうして?兄あり
き?と想ひ出してくれ

 姉に告ぐ
 幼い時よりの姉さんだ 俺は今日本の武士として戦死する 今まで永らくお
世話になつた厚く御礼する
 時々は田舎へ帰つて母さんと素子で俺の墓に来てくれ
 何も思ひ残すことはない

  【平成十年八月靖国神社社頭掲示】

娘たちへ

2012年2月7日 火曜日

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陸軍伍長  山田 進 命
  昭和二十一年二月十五日
  ソ連ウスリー州にて戦病死
  東京都淀橋区諏訪町出身
  四十歳

明代、靖子へ
お前達は、父亡き時は母は病身の事故(ことゆえ)、心配を掛けぬ様、お祖母様の処にて育てて戴け。
それで明代は、もう大きいのだから自分の事は自分でやる様。
自分で出来ぬ事以外は、他人に頼まぬ様、堅く是を実行せよ。
靖子は、祖母と母や伯父伯母皆様の言ふ事を聞いて大きくなる様。
そして、お前達は少なき姉妹なれば、一生仲良く暮す様。
身体を大切にせよ。
自分の身体と思ふな。
世の為、神様より御預かりして居るものと思へ。
では、父はお前達を何時も守って居るよ。

父より
【平成二十四年二月靖国神社社頭掲示】